修了生

卒業生近況 木田泰光さん/外務省国際協力局 勤務

 私がOSIPPに入学したのは、2002年でした。大学卒業後、民間企業に就職したのですが、途上国の開発に関わる仕事につきたいと考えるようになり、特にNGOなどへの就職を意識するようになりました。残念ながら、大学時代はまったくといっていいほど勉学をしなかった学生でしたので、国際関係や経済学を勉強する必要があると考え、退職してOSIPPへの入学にチャレンジしました。

  国際協力の場など何も知らず、青臭い思いだけを語っていた私でしたが、星野研究室に拾っていただきました。朝から晩までひたすら働いていたサラリーマン生活の期間があったためか、その時間を勉強に置き換えることは、そう苦にならなかった記憶があります。一方で、遊び呆けていた学部時代の影響で、授業の内容がなかなか頭に入らず、経済学を中心に、本当に苦労しました。

 博士前期課程の1年目は、日々のコースワークに明け暮れましたが、それと同時に、フィリピンやカンボジアでのNGOの活動に自費で参加していました。豊中で一生懸命勉強することも大事でしたが、それ以上に、行動力をもって現場に出て行くこと、人の輪を広げることがより重要だったと、後になって思います。そんな私の行動と焦りを見ておられたのか、1年生が終わりかける冬に、星野先生から1つの仕事への応募を勧められました。

 ODAによるカンボジアでの小型武器対策を通じた平和構築プログラムで、現場での実施チームのメンバーを募集している、というものでした。当時は英語が大してできなかったことも隠して面接を受けたのですが、採用してもらい、2003年4月、プノンペンへ出発しました。

 カンボジアは地雷の被害が有名ですが、約30年にわたる内戦の間は「男は全員兵隊」で、内戦が終了した後も、ライフルなどを持ったまま村に帰っていました。大量の銃器が国内に蔓延したままで、こうした銃器による治安への悪影響が心配されると同時に、再集団化して内戦が再発する恐れもありました。こうした事態に対処するため、日本に小型武器対策が依頼されるに至りました。

  銃器の回収には、いろいろな方法があります。銃を1丁ごとに買い取っていく方法、村などの共同体でライフルを○丁回収すれば社会インフラ(井戸、学校など)を作る(交換する)方法など、様々です。カンボジアでは、EUのチームがこうした方法を既に実施したことがあり、ライフルを持っていれば何かと交換してもらえる、という貨幣的価値を住民が持っていました。このため、対価を設定することは、住民の銃器への需要を生むだけであると考え、私たちのチームは、銃器が不要であることを住民に教育・啓蒙していく、という手法をとりました。

 これは、長い戦争を戦ってきた人々の考え方=「文化」を変える取組であり、難易度が高い方法だったと思います。しかし、真の平和に向かう段階にあるカンボジアでは、人々の銃器に対する「文化」を変えていく必要がありました。日本でいう「県」「郡」「村」「集落」といった様々なレベルで、銃器があることのコミュニティや家族へのマイナスの影響、法律の規定、平和な社会のプラスの影響、といったことを、何度も何度も教えていく機会を作りました。

 同時に、住民の安全を守るべき警察にトレーニングの機会を作る、警察が保有する銃器の管理を徹底するなど、警察機関の能力向上を進めました。回収した武器は、住民を集めたセレモニーで焼却破壊し、二度と使えないように処分しました。「違法な武器の回収」「必要な武器の正しい管理」「不要な武器の破壊」を包括的に実施しました。

 回収した小型武器の破壊式典で、ある村の村長が、私にこう言いました。「日本は、私の村に学校を作ってくれたりもした。しかし一番うれしいことは、もう私の村で、この武器で人が殺されることがないことです。」これを聞いたとき、村の人たちの「文化」が変わった、小型武器が必要とはもう考えていない、ということがわかり、自分たちの活動が間違っていなかったと心底実感したのを覚えています。

  結局、カンボジアでは4年半の間、小型武器対策の現場で働く機会を得ました。その後、外務省にて小型武器軍縮の担当官として勤務し、イラク・ベトナムの大使館にて政務・広報文化・経済等を幅広く担当して、現在は東京の本省にて国際協力を担当しています。

 OSIPPでは、勉強も求められましたが、それ以上に自分の思いに向けた行動力が必要だったと思います。それを見てくださっていた先生方には、応援と様々な機会を与えていただけました。そしてカンボジアの現場では、平和構築の現場に決まりきった解決策があるわけではなく、現場に応じた対策をとる重要性を学びました。これからもフットワークを軽く、人との出会いを大切にしながら、試行錯誤を繰り返していきたいと思っています。